幕末動乱期の最後の将軍・徳川慶喜は、天皇に政治を返上する大政奉還という決断によって日本の未来を大きく動かしました。
慶喜は聡明な判断力と政治手腕によって、幕府の権威が失墜していく中で平和的な解決の道筋をつけたのです。
制御不能の内戦へ

もし慶喜が将軍の座を固辞し続けていたら将軍不在のまま求心力を失った幕府内部で権力闘争が起こってさらに混乱し、歴史の針は全く別の方向へ進んでいたかもしれません。
薩摩と長州を中心とする倒幕勢力との武力衝突がもっと大規模かつ早い時期に勃発します。
鳥羽・伏見の戦いのような大規模な内戦が江戸を含めた全国各地で繰り広げられ、より多くの混乱と犠牲者を生じさせた可能性がありました。
明治維新が頓挫

旧体制を維持しようとする勢力と新しい時代を求める勢力の対立が深まれば明治維新は遅れていたかもしれず、さらには志半ばで頓挫したでしょう。
旧体制にとって急激な変化は強い反発を招き、社会の不安定化を招くリスクも孕んでいます。
そうなれば日本の近代化も大きく遅れ、世界における日本の立ち位置も大きく異なっていたかもしれません。
日本が植民地に
イギリスと清国が戦ったアヘン戦争によって香港がイギリスに割譲されて以来、幕末の日本は欧米列強の侵略の脅威に晒されていました。
日本国内の政治的混乱が長期化していたならば、外国勢力は日本への介入の機会を虎視眈々と狙ったでしょう。
欧米列強の思惑によって日本が翻弄され、最悪の場合は香港に似たようないわば植民地化の危機に瀕していた可能性も否定できません。
慶喜自身の力量への慎重さ

以前から開明的であった慶喜は幕府の立て直しが容易ではないことを理解していたため、安易に将軍となることへの責任を感じていたのかもしれません。
14代将軍徳川家茂の急逝という予期せぬ事態が起こったことによる幕府内や朝廷からの強い要請から、最終的には将軍に就任したと考えられています。
要職への就任要請があっても一度は辞退することを礼儀と考えていたかもしれませんが、慶喜の場合はその期間が長かったため単なる形式的なものとは言い切れません。
そこで周囲の動きや情勢の変化を見極めながら倒幕勢力との緩やかな連携を模索しつつ、より有利な状況で主導権を握ろうとしました。
その経緯からも彼の慎重で複雑な内面を垣間見ることができます。
誰か将軍やってくれませんか?

「幕府や朝廷からの強い要請」が徳川慶喜に無かったとしても、他に成り手になりえた人材を私は誰一人聞いたことがありません。
これはテレビ番組などで取り上げられてもよさそうな話題です。
ここで今こそ私が「もしこの人だったら?」と仮定してみたいところですが、この件においての「もしも」はなかなか語られません。
それはやってくれそうな人が日本中のどこにもいなかったという歴史があるからなのでしょう。
本当にこの人しかいなかったと。
☆東洋経済オンライン「将軍就任を断固拒否した徳川慶喜の驚愕の本音」 https://toyokeizai.net/articles/-/430699