12月1日放送の大河ドラマ「光る君へ」の刀伊の入寇の回を見ていて、すごく怖い思いをさせられました。
博多の街に上陸される前には、対馬や壱岐にも上陸したようです。
大宰府で大宰権帥(だざいのごんのそち)を務めていた藤原隆家のところに命からがら逃れてきたお坊さんが、すべての対馬島民が殺されたか捕えられてしまったと言っていたのです。
日本が外国勢力に攻撃された歴史的な出来事となりました。
NHK大河ドラマ「光る君へ」第46回 https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/episode/te/L8JZWXQLJN/
1019年の刀伊の入寇
刀伊(とい)は、朝鮮半島北部から沿海地方を拠点としていた「女真族」という部族を指します。
1019年、刀伊は日本海を渡って対馬・壱岐・九州北部を襲撃します。
目的は略奪と奴隷の捕獲で、組織的な軍事行動というよりも海賊行為に近いものでした。
それを迎え撃つ当時の日本は藤原氏による摂関政治の時代で、軍事力の整備は不十分でした。
刀伊による襲撃の規模は比較的小さく、数百人規模の集団による侵攻でした。
彼らは対馬や壱岐を襲って住民を殺害したり捕虜にしたりしましたが、九州本土に上陸する前に九州北部を地元とする武士団によって撃退されました。
特に、大宰府の官人藤原隆家が地元武士を率いて指揮を執ったことが功を奏しました。
大河ドラマでは竜星涼さんが演じています。かっこよかったです。
1274年と1281年の元寇
元寇はモンゴル帝国(元)による大規模な侵略でした。
皇帝フビライ・ハンが日本を従属国とするために行った遠征で、1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2回にわたります。
元寇の背景にはモンゴル帝国の拡大政策や高麗を服属させようという意図があり、政治的・軍事的な目的がありました。
元寇は大規模な外敵の襲来でした。「蒙古襲来」とも言われます。
1274年の文永の役では約2万人、1281年の弘安の役では約14万人という大軍が動員され、戦闘の規模も刀伊の入寇とは比較になりません。
さらに相手はモンゴル・高麗・南宋もが連合するという多国籍軍であり、当時の日本にとって未曾有の脅威でした。
なんとか持ちこたえました
刀伊の入寇での日本側の対応は主に地元の武士団によるものでした。
当時の武士の勢力は地域単位で組織されていましたが、藤原隆家が大宰府周辺地域の部隊を迅速に組織しました。
この戦いを契機に武士の役割が注目され、そして元寇の時代が近づくと鎌倉幕府によって全国的な防衛体制が整備されていきました。
文永の役の後に博多湾沿岸に「元寇防塁」と呼ばれる石塁を築き、弘安の役ではその防御が大いに役立ちました。
福岡市経済観光文化局 文化財活用局 https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/tour_courses/detail/117
結果としては台風が近づいて相手の船団が壊滅したことで、侵略を食い止めることができました。
この台風は「神風」とも呼ばれ、太平洋戦争で旧日本軍が組織した部隊を「神風特攻隊」として伝説のように語り継がれてきました。
とりあえず当時は天気が味方となってくれて、日本側にとっては幸運な結果となったのです。
持ちこたえた後の影響
刀伊の入寇はいわばその地で起こった災害のような形で終わり、日本全体への影響は限定的でした。
ただ、東アジアにおける海上の脅威に対する警戒心を高める契機となり、周辺諸国との関係において海防意識が芽生えました。
大河ドラマで取り上げられた「刀伊の入寇」とその後の「元寇」という2つの事件は、どちらも日本の社会構造や軍事体制の変遷を理解する上で欠かせない要素です。