令和6年度「税についての作文」の日本税理士会連合会会長賞を受賞した作品で、長野県で導入が検討されている観光振興税(仮称)と松本城が取り上げられていました。
長野県屋代高等学校附属中学校2年生(当時)の古林快土さんの作品です。題名は「広がる税のカタチ」。
☆国税庁「税の学習コーナー」 https://www.nta.go.jp/taxes/kids/sakubun/chugaku/r06/index.htm
壮麗な城郭の中でもひときわ目を引く黒い外壁で作られているその姿は、背景にそびえる雄大な北アルプスと相まって息をのむほどの美しさです。
私も20年くらい前に行きました。
敷地内に入ってしばらく庭園が続くその先の姿は、以前に聞いていたとおり本当に「黒いお城」でした。
☆国宝松本城 https://www.matsumoto-castle.jp/
☆長野県松本市「松本城史跡」 https://www.city.matsumoto.nagano.jp/soshiki/134/3775.html
その始まりは深志城から
松本城という名称に改められるまでは、深志城(ふかしじょう)と呼ばれていました。
その起源は戦国時代の1504年から1520年にかけて、信濃国の守護であった小笠原氏の家臣であった島立氏によって築かれた城です。
その後の1550年、甲斐国の守護の武田信玄が松本に侵攻。
近世の本丸・二の丸・三の丸・土塁といった主要な縄張りの原型は、この武田氏の支配下でほぼ完成したと言われています。
1582年に武田氏が滅亡すると、かつての城主だった小笠原長時の子である小笠原貞慶が深志城を奪還。名称が松本城と改められます。
天下統一を果たした豊臣秀吉は、以前の徳川家康の重臣であった石川数正を新たな松本城主に任命。
石川数正とその子の康長が、現在の松本城の象徴とも言える五重六階の天守を1593年から1594年にかけて築き上げました。
黒い鳥が羽ばたくように

この時代に大天守とともに乾小天守とそれらを繋ぐ渡櫓が建設され、現在の松本城の核となる部分が形作られました。
鉄砲を用いた戦いが重要となる戦国末期の築城であったため、松本城は城全体にわたり鉄砲戦を想定した防御設備が施されます。
堀・鉄砲狭間・矢狭間、そして石垣から迫る敵を撃退するための石落などがその特徴です。
この黒色は秀吉の好みを反映したものであり、城から出土している金箔瓦とのコントラストを際立たせる意図があったと考えられています。
江戸時代の面影
太平の世となった江戸時代に入ると徳川家康の孫にあたる松平直政が城主となり、辰巳附櫓と月見櫓が増築されました。
特に月見櫓は三方が開け放たれた優雅な造りで、戦の備えがほとんど必要なかった平和な江戸時代の象徴と言えるでしょう。
この増築により、松本城は「連結複合式」という独特の天守群を持つことになります。
2度の大修理と耐久工事の継続
1903年から1913年にかけては「明治の大修理」と呼ばれる大規模な改修工事が行われ、傾いた天守を引き起こして建物の補強や外装の整備が行われました。
さらに、戦後の1950年から1955年にかけては「昭和の大修理」と呼ばれる天守を完全に解体しての復元工事が行われました。
この大規模な修理では基礎部分の徹底的な調査が行われ、腐朽した木製の柱が鉄筋コンクリートに置き換えられるなどして耐久性が向上しました。
その後1990年には黒門が、1999年には太鼓門が復元されるなどと継続的な保存修理が行われています。
☆国宝松本城「国宝指定と修理のあゆみ」 https://www.matsumoto-castle.jp/value/national-treasure
こんな景色はなかなか無い

作者の古林快土さんは、長野県で観光振興税を導入することは松本城の修理や保護のためにも賛成だと言っています。
そして松本城のサイトの中で触れているこのお城の魅力のひとつに、黒い城壁と遠くの山々にかかる白い雲のコントラストだとあります。
とあるテレビ番組で取り上げられた際には、周辺の雪景色にも映えると言っていました。
観光振興税を納めることになるとしても、どうせ行くなら是非冬に行ってみたいですね。